安東のお葬式-8 慕思する私

모시다慕思するという、今まできちんと向き合ったことのない半島の精神世界を表す内容を凝視しつつ、感じるものがありました。父母と子という関係に関してです。

韓国では「親」に該当する言葉は「父母부모」となります。漢字語としては「親戚」「親切」という言葉は使いますが、両親を表す言葉は「父母」、尊敬語としては「父母任부모님/<任>は<様>に該当」と言います。ですから、「私の親ーうちの父母」は「우리 부모」、「あなたの親御さんーあなたの父母様」は「당신 부모님」といったように表現します。

儒教を見ると慕思する根本は子が父母に対するものであり、そこから様々な意味を波及し使用されていますが、人が人として成熟するということを考えたときに、この慕思するということを通して初めてそれが可能なように思うのです。

人は親の子として生まれ、結婚して夫婦となり、子を産み親となりますが、この「子女」「夫婦」「父母」という三段階を見た時に、どのような時点でその段階を満足したと考えられるかを探ってみたいと思います。

「子女」「夫婦」「父母」という言葉は、左が男性を表し、右が女性を表します。日本では「子」を一般的に子どもの意で使用しますが、半島では息子を指します。日本風に「子供」「夫婦」「親」というとどうも不揃いなので、半島風に表記することにします。

「夫婦」は互いを互いの心の中で慕思すること、つまり妻であれば夫を心の最も尊いところに貴重に据え、心の中に住まわせ生の基調とすること、夫であれば妻を心の最も尊いところに貴重に据え、その心の中に’住まわ生の基調とすることであるとするならば、父母や子女はどのような時点で成熟したと言えるでしょうか。それを慕思ということを基調に置き、「子女」が「父母」を慕思するときに「子女」も「父母」も完成すると結論付けました。

子女が父母を慕思し行動するときに子女としての道理を果たせるのであり、この時点で子女が子女として完成し、父母は子女に慕思されてこそ完全な父母として立つことができるのだと。父母を父母らしくするのは子女の宿命であり、子女によって父母は父母として完成すると。ですから、子女として完成する時点と父母として完成する時点は同時にあるのだということになります。

父母が子女を産んでも、父母を慕思する子女に成長できなければ、また、成長させられなければ不完全な子女、不完全な父母として残ってしまうということも考えました。

人は自分が父母になってこそ父母を本当の意味で理解し慕思することができるのであり、そうであるならば、夫婦になるということも、結論的には完全に父母を慕思するための一つの過程、形態と考えることもできるのではないでしょうか。勿論、子女が結婚して夫婦が仲睦まじく心ひとつに生きること自体が絶対的な孝行であり、父母を慕思する一因に他なりません。

今般のお葬式を通して韓国儒教を現代において理解した内容、それは森羅万象の根本は父母と子女との関係にあるということでした。모시다慕思するという概念から開かれるこの推考であること思うときに、半島の持つ深い智慧に首(こうべ)を垂れるばかりです。

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